019 大江戸上空いらっしゃいませ 冒頭SAMPLE 「いらっしゃいませ」 常連客の登場に、近藤は磨いていたグラスを置き、挨拶をしながら目元を緩めた。 大江戸かぶき町にある高層ホテルの最上階にあるバー「天空」。そこへ毎週金曜日になると現れる客だった。 「いつもの」 バーテンダーの近藤が知るだけでこの半年、毎週皆勤でこの客はここへ通っている。その台詞も板についていた。 「はい」 彼の好みはジンロックだ。通ぶって小難しい名のカクテルを頼む事もない。冷凍庫から取り出したジンをロックグラスに入れた氷の上からゆっくりと注ぎ差し出せば、一人静かにカウンターチェアに腰かけ、やたらと煙草を吹かしながら酒を飲む。 まだ三十手前と思われるが、女連れで現れる事もなければ、ナンパ目的でもないらしい。ただ、この見晴らしのいい最上階のバーの窓から、大江戸の夜景ではなく、いつもどこかもっと遠い、暗い空を見つめている。 店のスタッフの一人が、密かにこの客につけたあだ名が「フライディ」だった。 はじめ近藤は、彼の姿を見てそうだ今日は金曜日だったと思い出していたが、その内に、金曜日には彼の姿が見えるまで妙に落ち着かなくなった。 現れたところでどうという事もない。常連客の一人ではあったが、それ程口数も多くない。 その日も軽い世間話の後、彼はぼんやり煙草を吹かしていた。 「おかわりはよろしいですか?」 金曜の夜とはいえ、近頃は客足も少ない。ましてや夜景が自慢のホテル最上階で、窓際ではなくカウンターに座る客は、この時刻には彼一人だった。 「うん」 頷いた彼が空のグラスを持ち上げ軽く振れば、氷の回る澄んだ音がする。 「かしこまりました」 近藤が軽く微笑み新たなグラスを準備する間、彼はそれだけはこだわりがあるらしい、マヨネーズを大盛りにした野菜スティックを齧っている。 「お待たせ致しました」 グラスとともに灰皿の交換を済ませると、近藤は彼の視線につられたように、ふと窓へ目を向けた。 「今日は星、見えませんね」 厚い雲が月さえ隠している。残念だろうと慰めるよう言えば、彼は思わずといった風情でニヤリと笑った。 「でもこのくらいのが、予感、するだろ」 「予感」 楽しげな様子に鸚鵡返しに呟けば、「嵐の予感」と子供のように彼が言う。 「雲の中からすりゃ外界は常に嵐なんだ。でも、中に入れば晴天。そういうのって、雲の中に行けさえすりゃァ最高のユートピアだと思わねェ?」 夜の黒雲を眺めながら、彼はどこかうっとりとした表情をしていた。 近藤の中で最初に彼につけたあだ名はそのままズバリ「イケメン」だ。 軽く目を細め、度数の強い酒で湿した唇を、ちらり舌で拭う姿を近藤はじっと見つめた。 「ラピュタみたいですよね」 雲の中の楽園。何気なく言った近藤の言葉に彼が顔を上げる。 「え」 「ラピュタ。知りません? ホラ映画の……」 不意の真顔にあんまり子供っぽかったかと、近藤が慌てて言葉を繋げば、彼は酒のせいばかりではない赤い顔をした。 「……知ってる」 俯いて呟くと、彼はカウンターに両肘を突き、グラスを揺すって氷を回す。その様子に近藤は、ほっと肩の力を抜いた。 元より馬鹿にしたつもりはなかったが、人が真剣な話をしている時にマンガの話かなどと曲解されてもつまらない。この話はこれまでと領分をわきまえ口をつぐむと、近藤はカウンターの内部の片付けにさりげなく専念した。 他の客の酒を作る内にそんな些細な出来事は自然に忘れていたが、ふと見れば、金曜日の彼がカウンター越しに何か言いたげな顔でこちらを見ている。近藤は素早くグラスと灰皿の具合に目をやると、どちらもまだ大丈夫と確認してから彼の顔に視線を戻した。 「……マスター、ラピュタ知ってんの」 カラリ、カラリとグラスを揺らしながら頬杖をつくよう口を開いた彼に、近藤は小さく微笑んでみせる。 「そりゃ。有名ですから」 グラス磨きを再開しながら言葉を返せば、彼は「ふうん」と唇を尖らせるようにして、曖昧に頷いた。 と、グラスに残っていた酒を一息で呷る。その手を上げてカラカラと氷を振り、こちらにおかわりの合図を寄こす彼に、微笑を浮かべたまま「はい」と了承すると、近藤は次のグラスの支度をした。 |