春までそのまま突っ走れ 出稽古の帰り近藤は、自身の道場まで後もう少しと近付いた場所にある稲荷の森へ、いつもの習慣と歩を進めた。 今回もつつがなく出稽古を終えたと、銭の一枚も供えてお参りをして帰るのだ。早朝に発ったお陰で昼には地元まで戻ってこられた。 と、石段をいくらも上がらない内に上から「この野郎ッ」と鋭い声が降ってくる。 ザッと階段を駆け下りてくる黒い塊のような人影に近藤が顔を上げ、咄嗟に脇へ身を引いた。 走りくる男に近藤は思わず目を剥き、荒げた声を上げる。 「トシッ!?」 道場にいる筈の見慣れた門弟の姿に、近藤が驚愕した。 「近藤さん!? アンタなんで……」 束ねた髪を振り回し、言葉の途中で土方が叫ぶ。 「逃げろッ」 「えええっ」 喧嘩を自ら売り歩く事はなくなったが、未だ土方の名に反応するゴロツキもいる。そういう輩にこの男がまた呼び出されでもしたかと瞬時に判断した近藤は、担いでいた防具等の荷物を脇へ置き、木刀だけを取り上げる。 「先行けッ」 舌鋒鋭く一声叫ぶと近藤が顎をしゃくる。今では土方も立派に道場の門人だ。宗家師範代として門人の私闘を見過ごせない。自分が相手に灸を据えてやろうと、近藤は素早く袴の股立ちを取った。 ひらりと石段の残り何段かを飛び降り、すれ違いざま土方が叫ぶ。 「バカ! 後ろ、見えねェのか!!」 お前が脇目も振らず逃げるたァ相手は誰だ、と近藤が振り向いた顔を戻すと、嫌な羽音が向かってきた。 「蜂ィィ!?」 黒い影を認めた近藤は叫ぶやいなや自らも、とおんっと勢いよく石段を飛び降りる。 「待てコラトシィ!」 木刀だけを担いだまま、近藤も慌てて土方を追った。耳元に残る独特の羽音に背筋が寒くなる。それを振り切るように近藤が叫んだ。 「トシコラお前、何しやがったァァ」 背後に迫る羽音に怯えつつ突然の全力疾走を続けながら、近藤は風を浴び潤む目をこする。 追い縋る声に振り向かず、走りながらいつもの着流しの裾を端折ると土方も負けじと怒鳴り返した。 「何でこっちにくるんだよ! アンタあっちに走りゃいいだろうがよ!」 「アイツら一人で引き受けろってか! 鬼! トシ鬼!」 「ちっげーよっ。アンタまで、巻き込まれる事ァ、ねーだろって!」 山肌沿いの細い道から土方が、畑の畦に躊躇なく飛ぶ。自分の背丈程の高さを、間髪入れずに近藤も飛んだ。 足裏に感じる衝撃に二人して瞬間歯を食い縛り、それでも追い縋る蜂の羽音に、こけつまろびつ走り出す。 「ヤツらにそんな理性があるかァ!」 とにかく広い場所に出たと二人して這う這うの体で走って走って走り抜き、三本分かれ道の地蔵堂まで辿り着いた頃には息が上がり、もうこれ以上は走れねェとどちらともなくふらふら座り込んだ。途中腕を振り回し、髪は乱れ着物は崩れ、足元には泥が跳ねている。 それでも蜂からはなんとか逃げ切った。 暫くは声も出せずに肩を揺らし、新鮮な酸素を求め必死で喘いでいたが、やがて近藤は立ち上がり、大きくきょろりと辺りを見渡すと、野良小屋だか納屋だかを見つけ、脇の井戸へと向かう。 こちらはまだ呼吸が整わないと土方が黙って背中を見守っていると、近藤は、これだけは離さなかった木刀を脇へ置き、井戸の蓋を開けた。釣瓶で汲み上げた水を足元の別の桶にと移し、一すくいして味を確かめる。納得したのか桶を抱えると、ばしゃばしゃ足元へ派手に零しながら水を飲みだした。 うまそうな様子に、羨ましい、と力を振り絞り土方もそちらへ向かう。 その姿に黙って近藤が桶へ新しい水を入れ、渡してくれた。 キンと冷たい井戸水に、値千金、生き返ったと土方も喉を鳴らす。 「ぷっはー!」 手を洗い、顔を洗った土方に次いで、近藤も顔を洗う。出稽古帰りの長歩きと懐へ忍ばせている、丁寧に畳んだ手拭いを取り出し顔を拭くと、ついでだと近藤は諸肌を脱いだ。 本気の韋駄天走りに時ならぬ大汗をかいている。濡らして絞った手拭いで体を清めると、ホイと土方にそれを渡して背を向ける。剣の稽古の後はよくある事と、土方も慣れた手つきで近藤の背を拭いた。 「で? 蜂にお前、何したの」 好奇心たっぷりの声で近藤が後ろへ首を捻ると、肩甲骨が、ぐ、と筋肉の陰影から飛び出す。拭きにくい、と近藤の顔を正面に向くよう軽く押しやり、土方はフンと鼻を鳴らした。 「……アンタ、風邪は」 出稽古へ行く前、近藤は確かに鼻をぐすぐす言わせていた。土方としては腕っ節には自信があったが、稽古の代わりを申し出る程には流派の教えを知らない自分が悔しかった。 「風邪ェ? んなモンとっくに治ってら。日々の鍛錬の賜物さ」 筋肉を誇示するように腕を上げ、声に笑いを含ませる近藤の背をぴしゃりと土方が叩く。 「そんなこったと思ったよ。ハイ終わり」 言って手拭いをゆすぐと、今度は土方も諸肌を脱ぐ。土方が前を拭く間に、着物へ肩を入れた近藤が、交代と背後に回る。 さすがに水に浸けて凍えたと指先を揉んで温める、土方の滑らかな肌に浮かんだ汗粒を近藤が拭う。 事情もなく土方が蜂に追われるとも思えない。第一今頃の蜂は冬眠するのもいるが、しないものでも動きが鈍い。知らずに木剣で巣のある枝でも叩き落したか。 背や首筋の見える場所には蜂に刺された跡がないのを確認し、近藤はわざととぼけた様子で渋る声を出す。 「蜂に悪戯たァ感心しねェなァ」 「なにおう」 案の定、カッと尖った声で振り向くと、土方は近藤の手から手拭いを奪い、黙ってそれを洗い始める。何もそこまでと言いたくなる程固く手拭いを絞る、しゃがみ込んだ背中を見下ろしながら、近藤も着衣を改めた。 「だったらさっさと白状しやがれ」 からかいを含んだ近藤の声の中に本気の色を感じ取ったか、それとも行きがかり上とはいえ巻き込んだのを詫びる意味もあったか、土方は仕方なく口を開いた。 「……生姜。大先生が貰ってきたんだよ。アンタが行った後」 「へェ」 立ち上がり、着物を直した土方は、濡れた手拭いを早く乾けとブン回しながら元きた地蔵堂の分かれ道へ戻る。 「それで、……そういうこった」 井戸に蓋をし木刀を拾うと、後をふらりとついて歩いていた近藤が土方の言葉の唐突さに愕然と声を上げる。 「判んねェ! それはさっぱり判んねェ! なんで蜂?」 「知らねェのかアンタ。生姜に蜂蜜入れて飲みゃ、風邪封じになるんだよ」 「……そうなんだ?」 自分のところでは、ねぎを首に巻くのが風邪封じだった。知らなかったと近藤が、目をぱちくりさせ、という事はつまりオメー、俺にそいつを、と口元を緩める。が、気付けば鬼足とばかりスタスタ先を行く土方に、近藤は慌てて声をかけた。 「おおい! どこ行くんだよ。こっちだろうが」 地蔵堂から伸びる道のひとつをさっさと歩いていた土方が立ち止まり、怪訝そうに小首を傾げる。 「こっちからのが近ェじゃねェか」 自分が進む道へ軽く指で指し示す土方に、近藤は「バーカ」と笑って、はじめに駆け抜けてきた道を歩きだす。 「お前のせいで荷物神社に置いてきちまった。つきあえ」 お前もこっちに戻ってこいと手招きするよう腕を振ると、近藤は振り返らず、泰然と歩く。 風もないこんな日は、空気は冷えて澄んでいるが、雲も少なく暖かい。いい日和だ。 「なんでだよ。知らねェよ。俺ァ先に戻ってる」 近藤の背中を、たちどまったままとおぼしき土方の声だけが追ってくる。 「バカヤロー。お前のせいだって言ってんだろォ? 最後までちゃんとつきあえよ!」 前を見たまま近藤が声を張る。さてな、そこもといかがする、と妙に芝居がかって考えながらも、背後の気配を窺った。妙な意地から近藤は振り返らない。 と、たたっと足音が近付いてくる。近藤としては何とはなしに賭けにでも勝った気分だ。 「……先戻って、大先生にアンタの帰り知らせるとか」 背中にかかる声に、ほくそえむ顔を見られまいと近藤は大きく息を吸う。清冷な冬の空気が胸いっぱいに広がり、心地いい。 「うん。でも神社まででも一緒に行って戻ってって、そんなに時間かかんねーよ」 肩に担いだ木刀でトントンと拍子を取りながら、近藤はのんびり歩く。 「戻りゃ飯の支度もできるし」 その言葉に近藤はようやく振り向いた。成程、単につきあいの回り道が面倒なのか、はたまた蜂が恐ェのかと思ったが、どうやらこちらに気を利かせての事らしい。 立ち止まった近藤が、隣まできた土方の頭を軽く叩くように撫でた。 「おう。まァ、飯は一緒に支度すりゃ、あっという間だ」 「出稽古帰りのアンタに、そんな事させらんねェ」 触んじゃねェと首をそむけはするが、逃げるでもなく近藤の隣を土方も歩く。 「いやー疲れたといやァ、さっきの蜂とのおっかけっこが何より疲れた位だし」 言って近藤が隣を見ながら冷やかすように笑う。 実際は早く帰って誰かさんの顔が見たいと、途中殆ど休みなしに歩き詰めた。その顔が藪から棒とまさか神社から飛び出してくるとは思わなかった。二人して神社へ戻ったら、今日は一文銭じゃねェ、もうちょいと色をつけて拝んでおこう。 そんな事を思いながら近藤は、死に物狂いで駆け抜けた田舎道を、今度は穏やかに肩を並べて歩く。 「それ。木剣貸してくんねェ?」 手持ち無沙汰な様子で手拭いをぐるぐる振り回しながら土方が、自分より背の高い、隣の近藤をちらりと見上げた。 「どうすんだ」 「コイツ。結び付けてりゃ早く乾くかなって」 「バッカお前神聖な木刀をそんな物干しみてェな目には……!」 「あっは。本気にしやがった」 言って土方が軽快に、畦を再び走り出す。 どこかで鳥が鳴いていた。もうじき梅も咲くだろう。 「なーんーだーとー?」 折角のいい日和、もう走るのは勘弁してくれと思いながら近藤も、負けるものかと走り出した。 |
ひたすら走る近藤さんと土方さんが書きたかった。 書けて幸せ。 走って蜂から無傷で逃げられるか、というと無理っぽい気もしますが(笑)。 できあがった人たちなら、互いの刺された痕に、薬塗りあうとかもいいかもねー。 10.01.27.UP このお話に「恋侍」の、せーの様が絵を描いて下さいました。 青春だよ…! すっごい嬉しい。 必死な近土さんがむちゃくちゃ、もう、愛しくてなりません! せーの様、ありがとうございました! 素敵絵・直通はこちら |