「まだダメ」    

 
 古いが拵えはしっかりとした、掃除の行き届いたこの道場に土方が居つくようになってそろそろ一月が経つ。
 土方はさり気なく周囲に目を配ると人影のない事を確かめ、普段は使われていない小さな四畳半の部屋へそっと体を滑らせた。
 西日の強い、誰もいないその部屋に胡坐をかいて座り込むと、袂から出した絆創膏の箱を指先で慎重に開けた。
 先日見た近藤の、対外試合での立ち合い姿が忘れられない。
 これが修練を積んだ男というものかと、垢抜けない姿から繰り出される無駄のない動きに驚いた。

 近藤が、強いのは知っていた。
 老師範に小突かれ、ちびのクソ生意気な小僧っ子の弟子にいいように振り回されちゃァいるが、本気のあの男が、喧嘩の時に見せる姿も知っている。
 普段はにこにこしたお人よしとしか見えねェが、あれでもさすが腐っても師範代。まだ直接手合わせをして貰った事ァねェが、真っ直ぐで気持ちのいい、胸のすく剣を使う。
 いつか自分も立ち合いたいな、と思った。
 ま、今はまだ六・四……七・三で、マトモにやっちゃ勝てねェだろうがな。

 土方はゆっくりと両肘を曲げる。
 それだけで軽く腕が震えた。筋肉痛だった。
 近藤の試合を見てからどうにも落ち着かず、振れば振るだけ上達するかと、人目を気にしつつもひたすら丸太で素振りを繰り返した結果だ。
 痙攣する指を堪え、意識して力を込めながら握力のなくなりかけた手の平を開けば、それなりに硬くなったと思っていたマメが潰れ、血が滲んでいる。
 あんな丸太振り続けてちゃ、マメだって、出来るし潰れる。そりゃとうに実践済みだったんだがよ。久し振りにまた破けちまった。
 ここ何日か調子に乗って振りすぎた、と珍しく土方が自省する。
 これが消えた頃にゃ、見てろよ。
 あの小うるせーガキの鼻を明かしてやりたい。それから、あの恵比寿顔に一泡吹かせたい。
 だからってこの手じゃ暫くは、うまく竹刀だっても握れねェだろうがよ。
 本末転倒だ。
 血の滲む、世辞にも綺麗と言い難い手の平に、土方はぷっと唾を吐きかけた。
「トシー?」
 その時不意に障子越しにかけられた声に、土方は驚きのあまり傷付いた手を咄嗟に握り締め、小さな悲鳴を上げる。
「だっ」
「トシ?」
 障子を開けた近藤の目から隠すように両手をさっと袖口へ引っ込めてはみるが、絆創膏の箱が転がっているのはどうしようもない。
「何?」
 ぶっきらぼうな声で土方は、いかにも邪魔だとばかりに目に力を込め睨み上げたが、近藤は意に介さず傍へ腰を下ろした。
「手、出せよ」
 その言葉に土方は、袖へ手を入れたまま腕を組み、ふいと横を向く。
 別に隠し通せると思っていた訳ではない。それでも、あっさり予測済みかと思えば決まりが悪い。
「薬。塗ってやるからよ。早く治るに越した事ァねェだろ」
 その言葉に土方は鼻を鳴らしはしたが、ようやく手をそっと袖から出した。
「まだまだだなァ」
 指先で塗り薬を慎重に伸ばしながら、傷を見た近藤が言う。その言葉で反射的に振り払おうとした手首は、近藤にがっちりと掴まれている。
「まだ駄目」
 見極め通りと握った手の力を緩め、近藤は口元に楽しそうな笑いを浮かべた。
 薬を塗り終えた手に、絆創膏は使わず、袂から取り出した清潔な包帯を丁寧に巻いていく。
「この手じゃ、まだ駄目。もっともっともーっと練習しねェとな」
 言われねェでも判っていると、むっと眉を寄せる土方の反応を面白いと眺めながら近藤が言葉を続ける。
「でも焦んなよ。お前筋がいいし根性もあるしよ。変にやりすぎて体壊されちゃ意味がねェ」
 言って背を屈め、近藤はちらりと土方の顔を見上げた。
「俺がさ、手取り足取り教えてやるからよ?」
「ふっざけんな」
 からかう近藤の声音に、土方は窓から差し込む夕陽を背に受けながら、があっと吼える。
 その様にあっはっはと近藤が声を上げて笑った。
「お前、もっと強くなれんぞ」
 とりあえずの目標と決めた師範代から確信的に言われ、嬉しくない筈がない。それでも素直に喜ぶのは癪に障る。
「……当たり前だろ」
 唇を尖らせ、面映く反らした視線を、土方はゆっくり近藤に戻す。
「なんせアンタが手取り足取り、なんだろ?」
 落日の、色が強い光に紛れた顔色で、顎を上げ挑むように土方が言うと、吹き出した近藤が、くしゃ、と土方の頭を撫でた。




おねだりで10のお題 6.「まだダメ」

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08.08.08