アネキウスの子・1

  分化を迎えたのは旅の途中だった。
 追手の気配に怯えてはいたものの、トッズはいつも笑って傍にいてくれた。
「大丈夫よ。お前さんはなんにも心配いらない。それよりレハトがどんな美人になっちゃうかの方が心配だわ。最初に見られるとか役得すぎんだろ俺。楽しみだなおい」
 手を握り、頭を撫で、私の汗を拭きながら、トッズは毎日のようにそんな軽口を叩いた。彼が笑える間は大丈夫なのだと、私は無意識で知っている。だからつられて私は微笑み返す。その、分化の苦痛に歪みがちになる私のぎこちない笑顔にも、トッズはふっと眉尻を下げる。
 分化が終われば姿も変わり、追手にも気づかれにくくなるだろう。そしてなにより、彼の隣を歩くのに相応しい女性形を早く早く手に入れたい。
 城から逃げ出してしばらくが経った頃、まだそれほど分化の苦痛もなかった日々には、トッズは私を抱きしめながら眠ってくれた。
 手っ取り早いことはしないのか、と瞼を閉じてみても、彼は私の額や鼻の頭に軽くキスをくれるだけで、それ以上はなにもしない。唇にキスをするのは決まって、焦れた私の方からだった。
「こらこら。大人をからかうんじゃありません。もうちょっと待てばちゃんと大人になったレハトが手に入るんだから。これ以上俺を危ない人にしないように。ほら、明日も大分歩きますよ。寝られる内にお利口に寝てな」
 眠る場所は安宿であったり農家の納屋であったりで、時には何日も続く野宿も辞さなかったが、城にいた頃のトッズとは違い、彼は二人きりでも手を出してこない。それでも、誰かに抱きしめられて眠るというのは初めての経験で、私は自分の鼓動が彼に聞こえてしまうんじゃないかと、随分恥ずかしかった。
 だが、彼の心音と温かな腕は、追われているという緊張感すら緩める作用があった。私はここにいてもいいのだと、この人といてもいいのだと思わせてくれた。彼の静かな呼吸を聞きながら眠りに落ちる瞬間は、場所がどこでも、まさに至福だった。
 分化が終われば。
 そうすれば私は彼と結ばれるのだ。
 そう思い、納得していた。
 分化の最終段階では、私はどことも知らない村の籠り小屋で寝込むことになった。最中のことは辛くてあまり覚えていない。世話をしてくれていたのは、見たことのない女性だった。
 籠りの時期を終え、ようやく寝台から体を起こせるようになると、その人は私に女性用の衣服を用意してくれた。
 古着にしてもまだ新しい。彼女のものだろうか。柔らかな色合いのシャツの襟には可愛らしい刺繍がある。ふくらみを持たせ足首で裾を結ぶようにできているズボンは、この先もまだ旅を続けるのに重宝しそうだった。初めて手に入れる女性用の衣類というものに、私はいたく感激した。無事に女性に、大人になれたのだ。
 私は服のことだけでなく、篭りの最中も世話になっていただろうことに改めてお礼を言った。
「いいんだよ。篭りについちゃ誰だってお互い様だし、お礼ならあの人にちゃあんともらってあるしね。かえってウチは助かったくらいさ。ウチの気難しい爺様の相手を引き受けてくれてるんだからね。そうそう、その服だってあの人が自分で持ってきたんだ。あの人、面白いねぇ。ウチの牧場の兎鹿チーズにゃ、このハーブを合わせりゃどうだとか色々教えてくれてさぁ。……あんたのことも心配してたよ」
 籠りの最中は体の状態が不安定になる。接触する人数は少なければ少ないほどいい。それを判っているからこそ、トッズは私の世話を同性であるこの人に託したのだろう。
「毎日さ、この籠り小屋の入り口に花が一輪置いてあったよ。あんたが女を選んだのは、あの人の為なのかい?」
 兎鹿の放牧をして暮らしているという彼女は、大柄でふくよかで、善人に見えた。トッズが私の身柄を預けたのだ、実際善良なのだろう。細身だった私自身の母とは似ていないが、世話を焼いてもらう内に母に感じていたような近しさを覚えていた。
 私は彼女の言葉に素直に頷く。
 彼の為に女性を選んだ、と他人に表明するのはなんとも気恥ずかしく、頬に熱が上がる。
「そうかい。どこまで行くのか知らないけど……幸せにおなりよ。あの男もうまいことしたね。こんな綺麗な子と思いあうなんてさぁ」
 優しく微笑む彼女の言葉に、私は思わず鏡石を探した。
 私は一体、どんな姿になったのだろう。



 その後、沐浴を済ませ身なりを整えると、晴れてトッズとの対面となった。昼間の間に彼女の家へ行き、トッズの帰りを部屋で待った。
 緊張で頭がどうにかなってしまうのではないかと思ったが、同じように緊張していたらしいトッズは目を見開くと「よかった」と呟き私を抱きしめた。
「やったなレハト、よかった無事だった。どうしよう嬉しい。よかった。俺のアネキウス様に万歳だ。なあ顔を見せてくれよ。どうだ、どこか痛いとこはないか、もう苦しくはないのか」
 小さな部屋で、トッズは私の体を抱き上げ、くるくると回った。久しぶりに見た彼の顔は、覚えていたよりいくらか痩せていたようだったが、私を抱き上げる腕の力は衰えていないらしい。
 お前が無事で嬉しい。ただひたすらにそんな言葉を口にしながら、トッズは私の頬へ、瞼へと口づける。
 そうして私の足を床へ降ろすと、顔をまじまじと見つめた。
「綺麗だ」
 普段の軽口とは違う、どこか厳かな響きで言うと、彼は片膝をつき、私の手の甲を押しいただいてからそっと唇で触れた。
 それは大人の貴婦人にする行為だった。
 私は嬉しくて、胸が張り裂けるかと思った。彼が自分を大人だと認めてくれたのだと思った。
 その日の晩、私とトッズは新鮮な兎鹿のミルクを使ったシチューをそれぞれおかわりし、成人のお祝いだとアネキウスの蒸留酒まで振る舞われたご機嫌なまま部屋へと下がった。
 分化を終えた途端にどうこう、というのも浅ましい気はしたが、これまでの彼の言動からして、今すぐその気になっていてもおかしくはない。なにせ彼はこれまでに、もう十分待ったのだから。
 私はそう覚悟していたが、意に反してトッズは寝台が二つあるのをいいことに、私を一人で寝かせようとした。
「まだ体調も十分じゃないだろ。焦んなくってもここから先、一生二人でいられるんだから。お楽しみは大事に取っといた方がうまくなるってね。ひひひ」
 そう言って片方の寝台に入った私を寝かせようと布団の上からぽんぽんと軽く叩く。その手を掴み、私は彼の体を引き寄せる。
 バランスを崩し、私の上に上半身を被せるようにして倒れ込んだトッズが、慌てたように逃げようとするのを、懸命に抱きとめた。
 ずっとこうしたかったのだ。篭りの期間は正直、夢うつつでうなされていた。けれど時折り我に返った時には、この腕を、よく回る口を、干し藁のような太陽の香りのするこの髪を、どれほど愛しく思った事か。
 自分だってなにも、昨日の今日で彼に抱かれたいと本気で望む訳ではない。ただ、以前のように同じ寝台で、抱きしめて眠ってほしかった。
「あ、そんなこと言っちゃうの。知らないよ? 人の欲ってな、これだけだって心に決めてても結局、あとちょっと、もう少しだけって増殖していくもんなんだからさ。レハトみたいなタイプは気がつきゃ頭から、バリバリ魔物に食われちゃうかもよ? 俺だってただの俗物の男なんだからさ、もう少し用心してくれないと」
 彼はへらり、と笑ったと思えば本気の顔になり、次の瞬間にはふにゃふにゃととろけそうな笑顔で私をあやしてくる。
 そのくるくる変わる表情が、ずっと好きだった。久しぶりの間近で見るトッズの顔に、うっとりする。
 今この瞳の中には私だけが映っている。その事実に力を得て、私はトッズにわがままを言う。
 以前のように一緒に眠って欲しい。
 正確な日付は知らないが、私の分化のせいで、この場所にはしばらく滞在していたはずだ。ここからどこへ向かったか痕跡を隠す為に、西へ東へ、またぞろ明日からは旅の空だ。それなりに強行軍になるだろう。そうすることで私と彼を引き裂くものから姿をくらますことができるなら、文句はない。ただ、次はいつ寝台で眠れるか判らない。
 だからせめて、一緒に眠りたいのだ。
 ただ、彼も私の篭りの期間には心配してくれていたのだろう、あまり休めていないようだし、どうしても一人で眠るというのなら仕方がない、我慢をする。そのかわり、昨夜までトッズが使っていた寝台を、今日は私に譲って欲しい。せめてトッズの匂いがすれば、一人で眠っても心細くはないだろう。
 寂しいのも、拒絶されて悔しいのも我慢する。トッズにはこれまでも散々苦労をかけたのだ。彼の言い分には従おう。
 そう言うと、彼の頬は見る間に朱に染まった。
「ああもう! なによそれ、せめて俺の匂いだけでも、だって? 惚れられたもんだね俺様も。まったくもう、なにがあっても知らないからね。ほらそっち、もうちょっとつめて。肩出てないか? 寒くない? 大丈夫か」
 怒ったような言葉だったが、口調は優しかった。おまけに彼は、結局私の寝台に潜り込み、一晩、抱きしめて眠ってくれた。
 分化が済んだばかりで疲れているから。おいしいシチューのおかげでまだお腹がいっぱいだから。小さなカップに少しだけとはいえ、蒸留酒を飲んだから。
 その日、驚くほどあっさり眠りに落ちた理由ならいくつもある。
 けれど一番は、横たわる私を背中から抱きしめる、彼の存在という安心感だ。
 彼の腕は、温かった。この腕があれば、恐いことなどなにもない。理屈抜きでそう思えた。
「おやすみ」
 耳をくすぐる彼の優しい声が聞こえてきた時には、私はすでに半分夢の中だった。



 そうして。
 旅を続ける間中、彼は私を抱きしめて眠ってくれたが、色っぽい意味ではまったく手を出してこなかった。接触といえば、昼間は手を繋いで歩き、夜は抱きしめられて眠る。
 正直、私にはいまだ性欲というものがよく判らない。ただ、トッズに無理な我慢をさせているのではないかとそれが気がかりだった。
 夜、森の中で眠る時に、ここなら誰もいないと確信して、そう尋ねてみたことがある。
「レハトはそんなこと気にしなくていいの。男にも浪漫ってものがあるのよ。今までで一番上等の女とのハジメテがそこら辺の草むらだったり、壁が薄い旅の宿じゃあ思い出としてあんまりでしょ。そりゃね、ひょっこり貴賓室が手に入るとは思ってませんけどさ、ここでならしばらく落ち着けるって、ここが俺たちの家だって、そう言える場所に辿りつくまで、俺はもういくらでも我慢しますよ。だってそうなりゃレハトは完全に俺のものに……って、ひひひ、そりゃこっちの話か。まあとにかく、お前はそんなこと気を回さなくってもいいの。それともアレか。俺がレハトに我慢させてたか。ごめんな気づかずに。お前だってそろそろ男が欲しくなってもおかしくはないよなぁ」
 相変わらずよく回る舌でそう言うと、彼の手が私の腿を撫で上げる。
 そんな風に言われてしまうと、トッズとの関係ばかりが頭を占めている自分が、とんでもなくはしたなく思えた。
 にわかに頬に血が上る。
 恥ずかしい、と身じろぐ体をトッズがぎゅっと抱きしめる。
 それでも照れくささから彼の腕から抜け出そうとする私を、トッズは決して逃がしてはくれない。背中から強く抱きしめながら、首筋にかかる私の髪に鼻をうずめるようにして、囁きを続ける。
「な。判った? 俺はどこにも行かないんだから、レハトが心配することじゃないよ。ああだけど、俺の為にはとっとと落ち着き先、決めちまった方がいいかねぇ」
 落ち着き先とやらを決めた暁を匂わせるように、トッズは笑いを含んだ声を出す。
 そんな風に言われ、私はますます気恥ずかしく、早く眠ってしまおうと体を丸めて目をつぶった。
 背に伝わるトッズの胸の熱が、心地いい。
 正直に彼に話してしまえば、またからかわれるだろう。だからまだ内緒ではあるが、落ち着き先というものが早く見つかればいいと、私も強く、願っている。




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