アネキウスの子・2

「おー。あったあった。よし、レハトはちょっとここで待機な。俺がひとっ走り行って、様子を見てくるから」
 王城から逃れ、旅をしながら辿りついたのは魔の草原の近く、はじまりの森の中だった。
 人里からは随分と離れている。だが空気は澄み、綺麗な水の流れる川も傍にある。
 トッズが私の頭をひとつ、ぽんと軽く叩くと、遠くに見える小屋らしきものに向かって歩く姿を見送って、私は大きな木の下に腰を降ろした。
 はじまりの森。かつて徴持ちがこの地より北を目指し、人々を導き王になったという。
 徴を拒み、王になりたくはないと逃げ出した私がこの、南の果てにほど近いはじまりの森にきたというのは、きっと偶然ではなく必然なのだろう。
 私をここへ導いたのはトッズだ。だから、私にとっての王はトッズだ。
 そう口にすれば、彼はきっと顔を赤らめながらまた「俺が王様? 王様はレハトでしょ。俺はせいぜい王様の一番の侍従。そして王様の最愛の人」などと軽口を叩くに違いない。
 その顔を思い浮かべると一人でも自然と笑みがこぼれてしまう。こんなに幸せでいいんだろうか。彼のおかげで、一緒にいない時でも楽しくて仕方がない。
 歩き疲れたふくらはぎを揉んでいた私は、ふと思い立ち、トッズがまだ戻らないことを確認すると、自分の鞄の中、一番底に丸めて入れた服を取り出した。
 それは旅の途中、篭り小屋を貸してもらった時に世話になった女性がくれた、シンプルなワンピースだ。
「私の若かった頃のだよ。今じゃもう、こんなに太っちまったしさ。子供にやろうと取ってあったけど、ウチのはホラ、男を選んじまったからさあ」
 からからと笑うふくよかな女性の優しさに驚いた。世話になった上にそんな、と遠慮する私の目は、言葉とは裏腹に柔らかな布でできた空色のワンピースに釘づけになった。
「しばらく旅が続くんだろ? 折角女性を選んだんだ、こういうのが一枚あると重宝するよ。それを着てあの人に、もう子供じゃないのよって、よぉく教えてやりなよ」
 母がいれば。母がいれば分化した私とトッズを見て、こんなことを言ってくれただろうか。
 ありえない光景が脳裏をよぎった途端、私の目には熱いものがあふれてきた。
 ありがとう。
 涙をこらえながら何度も礼の言葉を口にすると、彼女はまだ痩せっぽっちの私を、強く胸に抱いてくれた。
「幸せにおなり」
 宥めるように背をゆっくりと叩く彼女の、繰り返されるその言葉に、私の涙腺が崩壊した。
 抱き寄せられたそのままの形で、胸へ縋りつくようにして泣きじゃくる。
 母が亡くなった時でさえ、こんなに涙は溢れなかった。城に連れられてからも、自分がしっかりしなければと気を張り続けていた。時折り流れる涙は、切なく辛い時にそっと零す、私一人きりだけの秘密だった。
 今は違う。この涙は、違う。
 胸のつかえが一度に外れたようで、私ははじめて声を上げながら、ただ、幼い子供のように泣きまくった。
 世話になった城での恩を、かなぐり捨てて逃げだしたこと。未だ追手がいるかも知れないこと。城では相当勉強をしたとはいえ、私の知識はまだ村の暮らしと書物の知識に偏っていて、トッズには敵わない。私は自分が足手まといではないかとずっと心配だった。
 けれどトッズにはそう尋ねてもはぐらかされるだけだろう。そうしてきっと、余計に気を遣わせてしまう。
 だから私はにこにこと、彼が好きだという気持ちだけを全面に押し出してきた。
 心を乱すものなどなにもない。トッズがいればいい。そう言えば彼もにっこりと微笑んでくれる。
 そのことにもちろん、嘘はなかったが。
 いつどこで、私の額の徴を見知った者が現れるかは判らない。トッズは私の世界のすべてだった。その彼に迷惑をかけているという事実が辛かった。
 そこに分化がはじまった。
 トッズに逢う以前、まだ村にいた頃は漠然と、私は男になるのだと思っていた。母が女性だったからだ。それを助けるには男手の方がいいだろう。そう考えていた。
 そして、私は神殿で性別を選ぶ誓いを逃げ出している。
 こんなことできちんと女性になれるだろうか。果たしてこの分化を乗り切り、生きていられるだろうか。
 なにもかもが私の心を締めつけていた。恐怖。焦燥。不安。
 耐えられたのは、トッズがいたからだ。
 トッズは、私を城から逃がしてくれた。私を、王の徴のある第二の寵愛者ではなく、ただ一介のレハトへと戻してくれた。
 トッズ一人ならばどこへでも行ける。いくらでも人の中へと紛れ込める。旅をしてそれはよく判った。
 だが私は駄目だ。人目があるところでは額の徴を知られやしないかと怯え続けて暮さねばならない。
 それは、アネキウスが私に与えた罰のようだ。
 人波をスイと掻き分け泳ぐようなトッズに、人の交わりから離れることを強いている。それが私の存在だった。
「大丈夫。大丈夫だよ。あんたは分化もちゃあんと乗り切った。恐いことなんてもうなにもないさ。あんたにもアネキウスが微笑んで下さるよ。大丈夫、あの人と幸せにおなり」
 わあわあと声を上げて泣き続ける私を抱きとめる、彼女の言葉は、どんな神官の言葉よりも胸に響いた。
 私がトッズと幸せになってもいいのだと、そこではじめて赦されたような気がした。
 私はしゃくりあげながら、本当に幸せになれるのだろうか、私たちが幸せになってもいいのだろうかと繰り返し彼女に尋ねていた。
「あの人と行くって決めたんだろう? 大丈夫、あんたは幸せになれるよ。誰だってね、幸せになっていいんだよ。少なくとも、あたしは応援してる」
 なによりも嬉しい言葉だった。
 城から逃げ出したことがどれほどの罪かは判らない。だが捕まれば、私はよくて幽閉、トッズはどう転んでも死罪だろう。
 ただ、私の額にアネキウスの徴があるというだけで!
 私とトッズのことは、誰もが祝福などしないのだと本能で理解していた。駆け落ちは、王は元より、アネキウスにすら逆らう非道な行いなのだ。神の意思にあらがうものが、どうして自らに福音が訪れるなどと自惚れられようか。
 私たちが二人でいること、それだけでも罪になるのだと、心の奥底でちゃんと覚悟していた。
 それが、今。
 私がトッズを愛すること。トッズが私を愛すること。それは罪ではないのだと、彼女の言葉で今ようやく認められた気がした。
 頭の中が、霧が晴れたように澄んでいく。
 私はトッズを愛している。この思いは、神の間違いなどではない。この思いは、悪ではない。
 彼女の言葉は、私には天啓だった。私の胸を、驚くほど軽くしてくれた。
 私は、トッズを愛していてもいいのだ。




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