アネキウスの子・3

 これまでの不安を洗い流すほど泣いて、腫れた瞼をそののち、トッズに驚かれた。
 けれどその時の出来事は、彼女と私で、女同士の秘密だと笑ってとぼけてやった。
 トッズは複雑そうな顔で肩をすくめると、「原因が俺じゃなきゃいんだけど。三軒隣の奥さんが、俺にメロメロになっちゃったのがバレたとかって話じゃないよね?」などとまた、ふざけたことを言っていた。
 その頃には私も、実際トッズに夢中になっていたのはこの家のお爺ちゃんで、これをしろ、次はあれだ、と兎鹿牧場の仕事でさんざんこき使われていたと知ってたので、彼の軽口はけらけらと笑い飛ばしていた。
 彼女にもらったワンピースは、トッズには一度もまだ見せていない。皺になりにくい素材だったので、小さく丸めて畳み、自分の荷物の一番下に入れて大事に隠し持っていた。
 折角ならトッズと結ばれる、特別な日に着たかった。
 分化も済んだというのに未だ私に手を出してこない理由を、旅の途中ではもったいないからだとトッズは言った。
 性欲というものの実感がない私は、そう言われると頷くしかなかった。
 彼を愛していてもいい、という実感は、私の心に余裕を生んだ。彼とはちゃんと心が繋がっているのだと思えた。
 それでもやはり、彼に抱きつくのは好きだし、彼に触れられるのは好きだ。
 トッズのひげが私の頬をくすぐるのが、好きだ。
 もっと彼に近づきたいと、思う。
 城にいた頃私に気安く触れていたのは、未分化に対するちょっとしたからかいだったと今なら判る。実際、彼は私が女性になってからの方が接触が減った。私はそれが、純粋につまらない。
 だがそれも、あの小屋がもし使えるような状態であれば終わるのだ。
 トッズが魔の草原に行った時に見つけたという、このはじまりの森に立つ小屋は、人目につかないことでは折紙つきだ。
 草原の魔物の伝説は、アネキウスの徴を持つ私とトッズを守ってくれるだろう。ある意味で面白い話だ。魔を払うのがアネキウスだというのに。
 ここから魔の草原まで、まだ多少距離はあるらしいが、本当に魔が出た場合は私が追い払ってやろう。その方法も知らないくせに、私は一人でそんなことを考える。
 この額の徴には、さんざん振り回されたのだ。そのくらいのご利益はあってもいいだろう。
 私にもトッズを守れる力があると信じたい。
 そんなことを考えながら、私はうきうきとワンピースを自分の体に当ててみる。
 彼が小屋の偵察から戻った時に、私がこれをきて出迎えたらどうだろう。喜んでくれるだろうか。
 それとも魔物がたぶらかしに出たかと怯えるだろうか。
 私はその時を想像し、愉快な気持ちになりながら、ワンピースを鞄にしまう。
 もしこの場所も、最近になって人が立ち寄っているようなら永住候補には程遠くなる。まだ旅は続くということだ。
 そして仮に落ち着ける先となっても、きっとまずしなければならないのは、トッズといちゃつくことよりも、大掃除だろう。
「なにごともハジメテってのは一度きりなんだからさ、大事にしたいじゃない」
 そう言っていた彼の言葉に、私も今では納得だ。
 ここまできて焦っても仕方がない。少なくとも、今は。
 何事もなければ、そろそろ彼も戻る頃だろうか。立ち上がり伸びをして、私は彼の帰りを今か今かと待ち望む。
 やがて小さかった人影が近づいてくるのが見えた。
 小屋の様子はどうだったのだろう。私は顔を出してもいいのだろうか。そわそわと落ち着きをなくした私の姿をいち早く見つけたらしく、トッズが大きく手を振ってくれる。これで少なくとも、私が今すぐ隠れなければならないということはなさそうだと判った。
 木の陰から飛び出した私に、トッズは大きく両手を上げて、丸印を作ってみせる。
 小屋を使えそうだということなのだろう。
 嬉しくて私は、自分の荷物を引っ掴むと、世界で一番愛しい人を目指して駆け出した。





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