アネキウスの子・4

 魔の草原に近い、はじまりの森にあった小屋に暮らすようになって二月がすぎた。
 はじめの内は大変だった。外観が残っているとはいえ、いつ無人になったのかも判らないような小屋を、住めるように改造する為にやるべきことは、いくらでもあった。
 まず圧倒的に物資が足りない。寝台や鍋釜、椅子とテーブルといった家具は、使い込まれた様相ながら奇跡的に残っていたが、積もった埃を払う掃除道具すら見つからない。
 食料も、私たちの手元には、少しずつ食べればなんとか五日ばかりは持つだろう旅用の簡易糧食があるばかりだ。
 人里から離れるというのは私にとってはほっとできたが、一方では不便さが増して当然だった。
 とりあえずトッズは、生活に最低限必要なものを手に入れる為に、時々出かけることとなった。
 最初の内は離れることが不安だったが、こればかりはどうしようもなかった。
 そうして二人して家を磨き、柵を直し、罠を作って魚や鳥を掴まえて、雨風を避けられる屋根があることに感謝しながら眠った。
 そんなある日、小屋からそれほど離れていない場所で、トッズは野生の麦畑まで見つけてきた。
「この景色が頭にあったからここを目指してたんだ。野生って言っても、ここに住んでた誰かが作ってたのかもしれないけどね。俺が魔の草原に行った時には、小屋は既に空家っぽかったけど。この麦、もうすぐ収穫できそうじゃない? どう、ひょっとしてまたトッズ様に惚れ直しちゃった?」
 黄金に光る麦穂を見ながら、私はトッズに飛びつく。この人を信じてついてきたことに、やっぱり間違いはなかった。
 麦があればパンが作れる。そういえば小屋に、石臼はあった。やはりこの麦畑はあの小屋の主と関係があるのかもしれない。収穫の時期に戻ってこないだろうか。
「大丈夫でしょ。あの埃の様子じゃどう考えても五年以上はあそこ、空家になってるよ。この畑だって草ぼうぼうで、管理されているとはとてもとても。鳥が食い散らかすだけなら、ちょーっと分け前もらうくらい全然オッケー、いただきます。なんなら鳥もスープにしていただきます、ってね。ひひひ」
 軽い口調でトッズが笑う。私はその笑顔につられたように、嬉しい嬉しいと彼の手を取りくるくると、踊るように回った。
 トッズがいてくれたから、旅はちっとも辛くなかった。
 元々城での生活がおかしかったのだ。ふかふかの寝台も、いい香りのお茶ももういらない。トッズと一緒にいる為なら、まだまだ野宿だっていとわない。
 けれど一面の麦畑は、私の心に強く、トッズとの生活というものを感じさせてくれる。
 私はこの人の、妻だ。
 その実感がふつふつと湧いてきて、私はただもう、トッズの手を掴んだまま、彼の周囲を跳ね回った。
 あなたといることが嬉しいのだと、あなたが好きなのだと感情を弾けさせなければどうにかなると思った。
 トッズといることが幸せなのだと遠慮なく飛びついてやれば、彼も嬉しそうに笑いながら、私を抱きしめくるくると回った。




 そうこうしてようやく、記念すべき第一回のパン作りが行われた。
 まさに地に足がついたという気がした。
 彼と二人、暖炉の前の床に直接座り込み、久しぶりの焼き立てのパンを頬張りながら、幸せだった。
 いいムードだった、と、思う。
 彼がにこにこ、へへへと笑い、私は私でにこにこ、うふふと笑いあっていた。
 パン作りがうまくいったせいもある。ここでの私の存在は、旅の途中より、素直に彼の役に立っている気がする。それが嬉しい。村で母親の手伝いをしていてよかった。
 トッズとは、相変わらず体を繋げてはいない。はじめは小屋の手入れでそれどころではなかったというのもある。
 だがようやく落ち着いてきた今もまだ、トッズは私を抱きしめて眠ってはくれるが、それ以上の行為はなんだかんだとはぐらかされてしまう。大体この人に、口で敵う訳はないのだ。
 城でトッズが、不機嫌な王子から私を庇ってくれたことがある。あの難しいことを言う王子すら舌先三寸で黙らせたのだ。私を丸め込むのなぞ、小指一本で十分だ。
 そんな風にちらりと城を思い出したせいで、大好きな人と、誰にも邪魔されずに並んで座ってパンを食べ、果実酒を飲んで笑うというこの幸福な現実に、余計に胸がいっぱいになった。
 キスがしたい。
 ふとそんな思いがよぎる。
 ついにあのワンピースの出番かも知れない。あれを着れば彼もその気になるかもしれない。
 どうしよう、と迷ったのは一瞬だった。
 トッズの口ひげに、パンの欠片がついてる。
 そんな小さな彼の油断に、突然我慢がきかなくなった。格好を気にする余裕なんてない。
 私は彼の肩に手を置き、顔を寄せる。何事かとおしゃべりをとめた彼の、口ひげについたパンの欠片に舌を伸ばす。まんまと口元を舐めてやれば、トッズに両の手首を強く掴まれた。
 驚きに目を見開く彼のすぐ傍で、私は体を固めて反応を待つ。
 トッズは私を、無表情のままじっと眺めたあと、立ち上がった。
「ええっ……と。……雨になるかもしれないのに刈った麦出しっぱなしだった。屋根のあるとこに寄せてこなきゃ。レハト、先に寝てていいよ。パンこねたりして疲れたろ。俺も疲れちゃった。農作業って旅とはまた違った疲れがあって眠いよねえ」
 なにかそんなことを言いながら、彼は戸外へ姿を消した。
 私はといえば、なにがなんだかよく判らなかった。
 ただ判ることは。
 振られた。空振りだった。はっきりと拒絶された。
 彼とも、キスはしたことがある。けれどもそれは基本的に、唇を触れあわせるだけのものだ。
 分化前に一度、城から出られたことが嬉しくて、勇気を出して彼の唇を軽く、ついばんだことがある。その時は「未分化の子供にはまだ早いでしょ」と軽くあしらわれた。
 分化後は何度か、晴れて女性化したのだから、と大人のキスというものをねだった。
「あのね、キスで済まないのが大人のキスなの。これからがっつりしっぽり、くんずほぐれつって合図なの。こんなとこでおっぱじめる訳にはいかないでしょ? それとももう我慢がきかないのかな?」
 そう言って旅を理由にさりげなく、要求は却下されていた。そういうものかと納得した振りをしていた。
 だが、今のはどうだ。
 あからさますぎるだろう。あんまりだ。なんてことだ。
 私は彼に、求められてはいない。






小説メニューへ戻る 戻る 続く