夏はじめ・3

 口元に薄く刷いた笑みは、過去を自嘲するような苦さを含んでいる。
 実際に土方は近藤の道場に身を寄せる前、女の世話になっていた事があった。
 腕試しだと自分から絡んでみせたつまらない喧嘩の後、地蔵堂の裏で雨宿りがてら休んでいると、同じように雨に降られて屋根に逃げ込んできた年上の女。
 雨上がり、怪我をしているじゃないかと強引に家へ連れて行かれた。ひなには稀な、野良仕事を知らない指が手当てだと脱がしてくる。こんなに細い指が実に器用に動くものだと、物珍しさから額のかすり傷に薬を塗る手を取れば、赤い唇が待ってましたとしなだれかかる。
 そこには、甘い言葉に誘われて、束の間滞在していた。
 面倒をみて貰い優しくされる換わりに、求められるまま体を差し出し、小さく閉ざされた、ままごとのような生活をした。
 通いの女中がいるものの一人身らしい彼女に、頼りになると囁かれ、水を汲み、薪を割りすれば喜ぶ姿に、どこか自惚れた。まだ子供だった。色恋のいろはも判らぬままに体を重ねていたが、元は江戸で常磐津の師匠をしていたという垢抜けた女に土方がのぼせるのに、時間は要らなかった。
 その頃には、長唄の看板ひとつ出す訳でも弟子が尋ねてくる訳でもない、手慰みに三味線を爪弾いてみせるだけの彼女が、実は大店のあるじの囲われ者である事を本人の口から聞いていた。
「ケチでわがまま。あんな男大嫌い。こうしてアンタと、ずぅっといられりゃいいのにねェ」
 鼻にかかった湿った声に、胸の奥をくすぐられた。世間知らずの与太郎だった。
 そんな生活感のない夫婦みょうとごっこの現場に、やがて女の旦那が現れる。
 女中に薄々聞いてはいたがとねちねち責め出す男の言葉に、土方は簡単に気色ばんだ。女の手を取りいっそ一緒に逃げようと、言い出す間もなく、あからさまにその男への媚を表した女の言葉が振るっていた。
「この子が無理やり」
 仕方ないじゃないか、こんな野中の一軒家、逆上されちゃ何されんだか判りゃしない。女中のあの子もちっとも助けてくれなくて。アタシャ何度も旦那様を呼んできとくれってあの子に頼んでたんだよゥ。アンタがきてくれたんならもう安心だ。
 言葉を聞きながら土方は、黙って立ち上がり着ていた小奇麗な着物から、喧嘩や放浪にくたびれた、元の自分の着物に戻ると二人の前を悠々と通りわらじを履いた。
 言ってやりたい言葉は形にならず、風に散る花びらのように、いくらでも浮かんでは消えた。何を言っても所詮は引かれ者の小唄、捨て台詞にもなりゃしねェと口をつぐむのが精一杯だった。
 世話になったとせめて声をかけるべきかと思ったが、居直り強盗に仕立て上げられた今、礼を言われては女も困るだろう。
 飛び出し、ふらりと根無し草の道場破りに戻ってからも、時折女の世話になる事はあったが、以来、誰かに惚れるという事はできずにいた。
 金をくれたのは、最初の女だった。
 小遣いだよと渡された金をどうしたものか判らずに、そっくりそのまま女の好物を買った。
「やだアンタってば。末は大した女殺しだ」
 身を捩り、瞳を潤ませ頬を上気させて笑った女は、旦那が現れた途端土方をならず者扱いした。
 それに懲りてからは、女が自分を求める間だけはいてやろう、頭の中でそう考えても腕を引く女の言葉を結局は信じ切れずに、腹がくちくなればひょいと逃げ出していた。
 その後も金を握らせてくる女はいたが、頑として受け取らずにいた。ずるずると居座るのが怖かった。情夫じゃなく通りすがり、一宿一飯の恩義だ、紙一重の矜持だと誰にも言えず自分にうそぶく。ツバメとしては失格だ。
「トシ」
 近藤が声をかけ、物思いに黙り込んだ土方の腕を掴む。




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