光を待つミノタウロス・12

 最初の一杯はただ、杯で飲もうとだけ決めていた。実際、三々九度はどうだろうと俺も思う。別に結婚式がしてェって訳じゃねェ。けど、今日くらいはいいんじゃねェの。こんなの一生に一度かなって、そう考えたらどうしても、真似事でいい、お前と、誰かの前でその、思いを誓い合うってな、いいんじゃねェのって。
 用意されてた杯が、寿の文字こそないものの赤くて妙に綺麗で、だからそんな気分になっちまったってのもあると思う。
 俺は杯に注がれたちょっぴりの酒を三度に分けて、押し頂くようにして口に含んだ。
 ただ一人だけでいい、カミングアウトしちまおうぜって、それしか聞かされてなかったトシは、黙ったまんまでこっちの様子をじっと見ている。
 杯から口を離した俺が視線に気付き、促すように目を細めればトシも妙に神妙な顔で杯をちょこちょこと三度程動かしてから飲み干した。
 強く、強く、胸を打たれる。
 俺は、この男が好きだ。
 俺みてェな勝手な男を丸っきり信じて腹に全部飲み込んで、ただ、黙ってしたいようにさせてくれる。
 俺は、どうしようもなくこの男が好きだ。
 俺が惚れたお前は、畜生、俺が一等好きな顔してて、しかも俺に惚れてやがる。
 こんなどうしようもねェ事はねェ。惚れちまうに決まってんだ。
「トシ」
 なんだか胸が詰まって、ヤベェな、俺、泣きそうかも。意識してゆっくり呼吸して、言葉を続ける。
「トシ。トシ。好きだ。好きです。俺はトシが好き。好きだ」
 いつもなら抱きつくなり押し倒すなりするんだが、そりゃあさすがに我慢だろ。
 トシのヤツは俺がそれだけ言うのに真っ赤になって、カウンターにはとっても目ェ向けてられねェって雰囲気でこっちをじっと見ていた。
「俺も」
 かすれた、喉に引っかかったような上ずった言葉を一端切り、咳払いをしてトシが俺を、睨みつける。
「俺も、好き、です」
 耳まで染めてそれだけ言うと、トシは横を向いて煙草咥えて、すぱすぱ煙を吐き出した。
 その様子の可愛いのなんのって。
 浮かれた気持ちに口元が緩む。
「熱燗二本」
 嬉しくなって酒の追加を頼んだ後、どうもありがとう、と杯をカウンター越しに返そうとすると、お登勢さんは「いいよ」とこちらも煙草に火をつけていた。
「いいよ。持ってお帰り。ひとつくらい記念の品があったっていいだろう?」
 ……なるほど。引き出物ってな周囲の客への土産だけだっけ。じゃあこりゃなんだ。結納の品? 違うか。姐さんの、立会人の、心意気、かな。
 新品同様とは思ったが、実際、この為に用意してくれてたんだろう。いーい女だ。
 何年、何十年と経ってからこの杯がふと出てくる事を想像する。きっとどれだけ経ってもこの晴れがましい気分を思い出す。その時もトシが隣で笑ってりゃいい。
 あの時のアンタは最悪だった、よくも俺を捨てられると思ったもんだよと笑いながら愚痴んのを、「悪かった」って機嫌取ろうと、やっきになる自分が思い浮かぶ。
 そんな風に。そやって年月を重ねて行こう。
 片恋に胸ェ焦がして自家中毒起こして眩暈してたのも、初めて体重ねた時のお前の指先も、覚悟なんざ決まっていると思っていたのに弱気の虫に飲み込まれて、お前を逃がしてやらなきゃなんて真っ暗闇で溺れた事も。
 全部覚えておこう。
 俺とお前のこれからに、全部連れて行こう。
「ありがとう」
 杯を、片手ではあるものの、うやうやしく頭上に捧げ、姐さんに礼を言う。水気を切って大事に袂へ落とし込むと、トシもそれを袖の中へとしまい込んだ。




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