アネキウスの子・6

 眠れずに何度目かの寝返りを打った時、ふと部屋の暗がりに気配を感じた。
 トッズだ。そう思い呼びかけると、果たして彼が闇の中から現れた。
「はぁいお呼び? 折角今日はレハトの可愛い寝顔を、正面から拝めるかと思って忍んできたのに」
 ひそめた穏やかな声を出しながら、トッズが近づいてくる。まとう空気は柔らかい。そのことにほっとして、泣きたくなった。
 彼が私を捨ててどこかへ行ってしまう訳がない。判っていても心細かった。私を拒絶するあまり、陰から見守ることにした、などと彼に本気で気配を消されてしまえば、私には探しようがない。
「ありゃりゃ。どうしたのレハト、泣きそうな顔をして。誰かに苛められたのか。俺がそいつをぎったんぎったんにやっつけてやるよ。レハトにそんな顔は似合わないよ」
 寝台の横に膝をつき、トッズは私の頬を親指でそっと撫でてくれる。その優しい仕種に、また全面的に甘えたくなってしまう。
 けれど泣くものか。私はもう、庇護される未分化ではないのだから。
 私は横になったまま、トッズに淡々と言葉を告げる。
 結婚するのだと思っていた相手が、出て行ってしまった。思い起こせばその人と、きちんとなにか約束をした訳ではない。だから私はこれから、こんな私でもいいと言ってくれる、どこかの誰かを探しに行かなければならない。
 そんな内容のことを言うと、トッズは私の髪をくちゃくちゃとかきまぜるようにして頭を撫でた。
「はっはー。悪い男がいたもんだねぇ。こんな可愛い子を置いていくなんてさあ。どこかの誰かもいいけどさあ、それくらいならレハト、相手は俺にしちゃいなよ」
 悪びれない減らず口に、私は枕を取ると、それを思い切りトッズの顔に叩きつけた。
「おわっ。乱暴だなあ。判った、悪かった、ちょっと! うわっ。落ち着いて、ってば」
 うるさい。知るものか。
 上体を起こし、枕で何度も殴りつける。
 それでも、その気になれば全部よけられるだろうくせに、大人しく私の枕攻撃を受ける潔さに免じて手を緩めた。
 その隙に彼は私を抱きしめ、耳元で囁く。
「ごめんな」
 ……ずるい。それだけで私は、全部許してしまいたくなる。
 トッズは寝台に腰を掛け、私の頬を両手で包んだ。淡い月明かりがトッズの、困ったように笑う顔を浮かび上がらせている。
 また私は、この人を困らせている。
 元々こんなに素敵な人を、世間から切り離し、独占しているのだ。
 彼が私を大事にしてくれているのは本当だろう。そこに疑う余地はない。私の愛情が空回りしていただけなのだ。
 それを私は、そろそろきちんと受け入れなければならない。
 覚悟を決めて大きく息を吸った私が口を開く前に、トッズは私の頭から頬を、髪の流れに沿って撫でる。
「ああもう。なんて顔してるんだよ。俺か。そんな顔させてんのは俺だな。うん。ごめん、ごめんな。だけど……そうだな、こんなとこまでレハトを連れてきて今さら言うことでもないんだけどさ。俺は本当は、こんな風にレハトに触っていい人間じゃないんだよ」
 その言葉に、私は彼の表情が見たいと、顔を上げた。
 トッズはふっと目を細め、照れくさそうにひとつ笑うと、私の顔を自分の胸へとつける。
 そうされてしまうと、彼がどんな顔をしているのかが判らない。やっぱり、ずるい。
 けれど彼のそんな態度には慣れている。だから私は、せめてトッズの本当を読み取ろうと、彼の心音に耳を澄ませる。
「レハトが恐がって、俺のことを嫌いになったらどうしようって、ずっとはっきりは言わなかったけどさ。まあ……判るでしょ。メーレ邸の時だけじゃなくてもさ。俺はお前さんを利用しようと近づいた。レハトの時にゃあお前さんが、あんまり俺なんかを素直に信じてホイホイ言うこと聞いちまうから、うっかりほだされちゃったけどさ。けど、まあ。それまではミスもなく、それはそれはしっかりお仕事していた訳よ。地面を這いずる、虫みたいなお仕事。……って言っちゃうと虫に悪いかもね。虫はただ、一生懸命這ってるだけだもんなぁ」
 彼の鼓動は、少し早いが正確だ。私の後頭部を緩やかに撫でる手も、落ち着いている。
 これで彼が口にする言葉が私を拒絶するものでなければ、私たちはきっと誰が見ても夫婦か恋人か、とにかくとても仲良しの二人だっただろうに。
「そんな薄汚れた手で、俺みたいな人間が、レハトに触るなんておこがましいでしょ」
 彼はまた、そう言った。
 私をなんだと思っているのだろう。自分をなんだと思っているのだろう。
「ね、前にさ、城で俺の名前尋ねたこと覚えてる? ヒントです。もうお前さんも察してるとは思うけど、真ん中はアーネ。アネキウスに捧げられた子。神殿もうまいこと言うもんだね、捨て子はみんなアーネなんだから。信徒が増えれば力が増えて万歳だ。それでも俺だって、うーんとガキの頃にはアネキウスを信じないでもなかったけど。……本物のアネキウスの子ってのは、レハト、お前さんのことを言うんだって傍で見てて俺にも判った。俺みたいなやつでさえ、お前さんににこにこされて、それでまんまと参っちまうんだからなあ。俺はきっと生まれた時から、レハト、お前さんに捧げられた子だ。そしてお前みたいな綺麗な子は、俺なんかと混じっちゃいけないんだ」
 彼の言葉がひとつずつ、私の胸に突き刺さる。
 彼は。
 彼は私を、第二の寵愛者からただのレハトに戻してくれた。その為の命がけの逃避行にも、こうして寄り添ってくれている。
 そう信じていた。なのに。
 彼が見ているのは私ではない。額の徴だ。
 神聖なものであると崇め、大事に敬うことで、彼は自分の、汚れているらしい世界から、私を隔離する。
 彼は私に、アネキウスを見ている。
 彼の世界に、私は混ざれない。
 死後ですら私の魂は神の国へ行くのだと言われた。母がいる山へは行けないのだと。
 それでもトッズとならどこにでも行けると思っていた。神の国からですら、私を連れ出してくれるだろうと。
 なのにここで拒絶されるのか。
 あくまでも異質な私は、こんな地の果てですら、世界と交わることはできないのか。一番愛した人の腕の中にさえ、私の居場所はないというのか。
「レハト?」
 瞬間、彼への憎悪がわいた。だがまだ私は彼を愛している。憎み切れないほどに。それが悔しい。
 だが、どうしても……愛おしいのだ。
 私を見ずに徴を見るというのなら、いいだろう、私は彼の為の聖女になろう。そうして彼が望む通り、綺麗な存在であり続けよう。
 彼が自分を薄汚いと卑下するのをやめるその日まで、アネキウスの子、寵愛者として振る舞おう。
 彼を、赦し続ける存在となろう。
 そうしていつか彼も、自分がアネキウスの子である私に、愛される価値があると思い知ればいい。
 その時ならきっと、彼の世界に私を組み込んでくれるのではないだろうか。
 そんな復讐にも似た愛の決意を固めていると、トッズは私を寝台へと押し倒した。
「……と、まあ考えないでもなかったんですよ、さすがのトッズさんでも。俺がレハトをいただいちゃうってのは、ひょっとして自分の中にアネキウスの大事な子を俺程度が踏みにじるっていう暗い喜びがないですかね、とかな。実際城から逃げ出すのに、篭りが明けたら警備が大変、なんてそれっぽい理屈を言ってましたけども。本当にレハトのことを考えるなら、篭りの期間はちゃんとお城で丁重に世話をされていた方がいいに決まってるんだ。判ってたさ。レハトの一人くらい、手段を選ばなきゃ俺だってさらえる。それこそ宝物庫に軟禁されてたってさらいに行くさ。それを成人を待たず、レハトに危ない橋を渡らせてまで連れ出したのは……恐かったからだ」
 寝台に倒された私の顔の横に手をついて、トッズがこちらを見下ろしてくる。
 この角度から彼を見るのは新鮮だ。彼の言葉を聞きながら、そんなことを考えていた。
 彼の顔が自虐に歪む。その顔は嫌だ。見たくない。
「あああそうだよ、恐かったんだよ。レハトが男を選んだらどうしよう、例え女になってもレハトが俺以外のやつとちゃいちゃしたらどうしよう、レハトの気が変わったらどうしよう、俺なんか十把一絡げの雑兵だって気がついたらどうしよう。……ずっと、考えてたさ。だからさらった。連れ出した。レハトがまだ子供の内に。レハトが俺しか見えなくなる土地まで、早く早くって。なのにレハトはそんな俺のことをずっと信じてずっと愛して、まったく俺も焼きが回ったもんだ。俺の欲で女にしたくせに、いざとなるとブルっちまって、お前に手が出せなくなっちまった。本気で俺とどうにかなりたいのか最後の最後くらいレハトに選ばせてやれって、俺が襲かかっていい女じゃないって、毎晩毎晩、俺だって必死で耐えてたんだよ、畜生。理性なんてくそくらえだ。衛士気取りなんてやめだやめ。俺なんてそんなもんですよ! こんな男をなぁ、レハト。お前さんは……どうしたい? もう結構だと追い出しちゃう?」
 それは私を神聖視しているという言葉より、ずっと私の胸に響く告白だった。
 それが彼の告白だった。
 だから私は、ちゃんと選ぼうと思う。自分の本当に望むものを。
 私はトッズの首に手を回し、自分の元へ引き寄せる。
 そうして重ねた唇は、今度こそ拒絶はされなかった。







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